そして、帰国・・・

ハミルトン島からの帰りも朝7時台のフライトで、ケアンズには8時過ぎに着きました。4時間も空くんですが、他の便だと間に合わないのでしょうがないです。国内線と国際線ではターミナルが違うらしいので、車を探そうかなどと話しながらゲートを出たところ、現地係員と思しき日本人が乗り継ぎ案内のボードを持ってズラリと一列に並んで待っていたので一瞬たじろぎました。目が合ってしまって恥ずかしかった。「私たちはツアーではありません。声をかけないで下さい。」というオーラを発しながら、ややうつむき加減にその前を通過。これだけハミルトン島に行ってた日本人は多かったんですねぇ。パッケージツアーにはこういったコストがマージンとして入っているんだなぁ(^^;;)、と思いつつインフォメーションで尋ねたところ、歩いて行けるよ、ってことだったので外に出ました。

5分ほど歩いて国際線のターミナルに着きました。空き時間で免税品を買いたいと思ったのですが、この時間ではまだ開いてません。航空会社が違うためハミルトン島で成田までのチェックインができませんでしたので、ならばチェックインカウンターが開いていればやってしまおうと、近くのベンチで待っていました。一人出てきた係員に外国人が話しかけて何か手続きしていたので、終わった後に私達もチェックインできるか頼んでみました。そのかたはオーストラリア人なのですが、ご多分に漏れず日本語堪能。日本人のダンナ様とご結婚されているかたでした。前の外国人は別のフライトだったようで、(私達のフライトは)まだチェックインできる時間ではありません、と一度は断られました。が、荷物を持っていない私達を見て、乗り継ぎで荷物を既に預けているのならチェックインできますよ、と追いかけてきてくれて、手続きしてくれました。ハミルトン島のチェックインで、荷物を預けるなら最終目的地(成田)まで預けることになる(=ケアンズでは引き出せない)と言われてちょっと面食らったのですが、預けておいて良かった(^^)。同じ航空会社ならよくあるケースですが、違う会社でもこういう対応をすることがあるんですね。
おまけに、アメリカン航空のAAdvantageカードを持っていたので、ビジネスクラスにアップグレードとなりました(Y(^o^)Y)。マイレージカードを持っていたことと早くチェックインできたことで、オーバーブックしていたエコノミーからビジネスシートへ移ることが出来たんですね。これはすっごく嬉しかった。カンタス航空最高!!市街地のDFSに行こうか、とも思っていたので、行かなくて良かったです。

鼻歌交じりで免税店が開くのを待つ。もう待ち時間は全く気にならない。9時半を過ぎて入り口が開いたので中に入りました。徐々にお店も開き始めたので順番に全部見て廻りました。目当てはKen Doneのショップ。お土産にも良いですしね。ここでの買い物で、残っていた豪ドルの現金を使い切りました。車を使っても現金を払ったりしませんでしたし、単一リゾート地であるエアーズロックやハミルトン島はキャッシュフリーでしたので、用意した豪ドルが殆ど余ってたんです。
アボリジニ関係のお店もありましたし、基本的に小さな国際空港なんですが充実していて良かったですね。国際線のターミナルビルは建ったばかりのように見えました。国内線のターミナルより数段キレイでした。
そうこうしている間に人が増えてきて、かなり混んできました。これだけの人出なら相当な観光収入が入ってくるんでしょうね。もっともっと発展して欲しいです。この人出ならもうちょっとターミナルが大きくてもいいかな、とも思いました。

767(だったと思う)のジャンボ機なのに、東京行きのフライトは本当に満席でした。すごいなぁ。席は一番前に近い。飛行機の「鼻」の辺りですね。ビジネスクラスに乗ったことがないわけではないのですが、こんなに前に座ったのは初めて。おかげさまで快適な帰路となりました。食事も美味しく、サービスもすばらしかったです。大変満足しました。

エアーズロックの項でも少し書いていますが、オーストラリア人は非常に親日的です。ホスピタリティは高く、日本語も上手だし、なにより日本人を見下したような態度をとりません。海外旅行をしていると、例えば、金を持っている日本人にいっぱいモノを売りつけようという態度見え見えなことをやられたりすることが多々あります。しかし、彼ら(特に日本語堪能な人)はそのような感じは見せず、媚びずに真摯に接してくれます(片言だけしか喋れない人は別ですが)。
この旅行中に時として日本人向けサービスが過剰と感じることがありました。しかし冷静に振り返りますと、得てしてそういう時は現地にいる日本人が過剰に接してくるからそう感じるのであって、オーストラリア人のせいではないと思いました。

私は高校時代にオーストラリア人の留学生と一緒のクラスになって半年ほど一緒に過ごしたことがありますが、彼も能力が高かったのか、たった半年で日本語ペラペラになって本国へ帰って行きました。この旅行でオーストラリア人と接して、彼のことを思い出しました。
現在彼は日本語ガイドをやっているそうですが、現地でさらに日本語が上達したそうです。彼もこういう業界に身を置いて頑張っているんだなと思います。2000年はシドニーオリンピックですので、忙しいのではないかな?